昨今のエネルギーと世界のこと

ちょっとあまりにもお久しぶり過ぎて、どれだけの方にここが読んでいただけるのか分からなくなっておりますが、書き留めておく場所としてこちらへ記したいと思います。

ここのところの暑さと強いエネルギーが昨日の夏至でピークを迎えて、昨今感じていたことや見知ったことが繋がった感があって、書き記したくなりました。

AIが普通に普及し始めて、人が行うアウトプットのカタチが次第に様変わりして来ています。
若い人ほど抵抗なく取り入れているし、使いこなしているのはどの時代でも同じことですね。
もはやそれらに逆行する術もなく、受け入れざるを得ないのでしょう。

ここからはそれらAIとの付き合い方へとフォーカスして行く時代になりますね。

それはそれとして、アウトプットのパフォーマンスがその人個人の特性や色、性質、才能と乖離し始めています。その辺りも時間が経てば変わって行くのかも知れませんが、私はまだ自分の創作物にAIを取り入れる気はしていません。あくまでも自分の言葉と創造を記すことが重要だと思っています。

先日、選書家さんを囲んでのお話会形式のワークショップに参加する機会がありました。

選書という、本を選ぶ仕事がお仕事として成り立つこと自体が新鮮でしたが、そこでたくさんの気づきや発見がありました。

色んな面白いお話が出たのですが、そこで私が感じていたことの一つが、言語化の限界です。

言語の地平線の先、水平線の先は、言葉で捉えることの出来ないエネルギーや意識の世界だなぁと。

言葉にするということは具現化することで、そうすることによってこの3次元に実存する存在となる。
言葉とは音ですが、人間の思考の具現化ツールなんだろうと思いました。そしてそれは、高度な知性がないと生み出せないツールです。 

選書家さんのお話の中で印象的だったのが、書籍という作品は、紙の材質、表紙のデザイン、ページ数、そして一枚のページにどれだけの文字をどんな感覚で並べるか、行間のサイズ、文字サイズやフォントなどが全て計算つくされ、デザインとなり、その作品の世界を作り出す要素となっているという件でした。

だから、それら文字がベタっとデジタル化されたものは全く別物だと。

デジタルの弊害は、アナログレコードとCDの違いでも良く言われますが、本にも同じことが言えるんだなと思いました。

デジタル信号とは1と0の組み合わせでしかなく、そこに載せられる情報と、まるで指の隙間から零れ落ちて行くように抜け落ちる情報が出て来てしまうんだと思います。その抜け落ちてしまう情報とは、文字の背後にある次元、奥行きで、それはまだ言語化される前段階にあるエネルギーそのものなのではないかと感じたのです。

私は今、通常の事務職仕事を平日しておりますが、その前任者からの引継ぎでも同じことを感じました。

ご体調不良で退職することになった方でしたので、私は実際にご本人にお会いすることも出来ず、お顔も知らない人間性も分からない人から、音声だけのリモートで引継ぎを受けることになりました。

それはとてもとても歯がゆく、音や言葉になっていない背後の情報がすっぽりと抜け落ちたもので、本当に私が知りたいこと、例えばその職場の空気感だったり、周りのスタッフとの距離感の取り方だったり、外部関係者との上下関係の機微だったり、また前任者が実際にこの職場についてどう思っていたのかというリアルな体感だったりが、マニュアルと称したテキストからはすっぽりごっそりと抜け落ちていたのです。

「あなたという人間の、背後を、その奥行きを、繋がりを知りたいのです。」 

言葉にするとしたらきっと、私の声はこんなことだったと思います。

そしてそんなことが、昨今ではあちこちで起きているのではないかと感じています。

昨日は友人たちと気の置けないおしゃべりの時間を久しぶりに持てたのですが、その場でも若い方達と職場での繋がり、コミュニケーションの難しさが話題になりました。そこでもこれら情報の「デジタル化による抜け落ち」が発生しているのが一因ではないかと思った次第です。

言語化された時点で既に届いていないエネルギーがあるのに、それらがさらにデジタル化されると益々エネルギーとしてはスカスカなものになってしまうと思うのです。

かくして世界はとてもつまらなく貧相になって行く。

昨日の夏至は、太陽のエネルギーが直接感じられる珍しい日でした。日本では毎年ほぼ梅雨の曇り空のことが多いので、まるでヨーロッパの夏至みたいな強い太陽のエネルギーが届けられた夏至はとても久しぶりに感じましたし、太陽そのものの奥行きというのか、層のようになった太陽のエネルギーがリアルに届けられた気がします。

それを夜に反芻していて気が付いたのですが、昨日の太陽のその先、銀河のエネルギーと言うのか、そんなものが太陽を通じて高く遠くから真っ直ぐに届けられていたんだなと。

そしてそれら届けられた宇宙のエネルギーのうち6割7割は、まだ未解明のダークマターと言われる質量です。
私たちの実存する世界とは、未解明、明文化、言語化、物質化されていない部分の何と多いことか。

そして見える分かる、カタチになっているものだけで世界を捉えることの危うさ、視野狭窄の懸念、つまらなさもここに通じるものではないかと。

デジタル社会が指からこぼれ落としたダークマター的質量は、決して無駄や不要なものではなくて、寧ろそこから新たな命や発見、煌めきが生まれる萌芽を大量に含む豊かな質量であるはずです。

AIは果たしてそこに気がつくことが出来るのでしょうか。そして人間はそれらをもう一度掬い取ることが出来るのでしょうか。

私はそんな、指の隙間から零れ落ちた言語化される前のエネルギーを何とかつなぎ留めておこうとするのが芸術だと思います。

若い人たちが今、教わっていない、聞いていないと言って理解から逃れようとする背後のエネルギーは、決して言語化されないので物質として存在しないのですが、だからと言って存在しないことにしてしまうと人間の在り様そのものが変わってしまいます。

人間は本来、そういった言語以前の情報を理解できる存在のはずなのです。

話は飛びますが、昨日友人たちとの会話で、宮崎駿監督の映画作品「君たちはどう生きるか」も話題になりました。

感想は皆それぞれにありますが、この作品もやはり現実の実存しか見えない、存在として理解しないという感性では全くついて行けないもので、個々の意識の世界のお話だったのですが、私はこのタイトルと内容がどうにも繋がらない気がしていました。でもそれが、昨日みんなとおしゃべりした後に、”君たちはどう生きるか” とは、即ち、 ”君たちはこの世界をどう捉えるのか” ではないかと気が付きました。

この世界をどう見るか、何を見るか、どう捉えるか。

それは言葉にならない質量をも意識で捉え包含する世界を見るのか、デジタル化された情報のみを世界と捉えるか、はたまたもっと違う世界を自らの意識でクリエイトするのか。

みずがめ座冥王星時代とは、そんな自らの意識の在り様で世界を創る時代でもあると感じています。

選書家さんのワークショップに話は戻りますが、あの場で生み出された空気にも私はとても関心しました。

人が集まってそれぞれの知恵を出すと、そこには磁場が形成されます。引力と言っても良いですが、メンタル体のチカラが生み出すエネルギーの強さ、賢さ、生き生きとした知性がそこにはありました。これは久しぶりの体験で、とても良い経験になりましたし、まだまだ人間のチカラは伸びしろがあると思わせてくれるものでした。

ではでは、また。