愛の源泉

10月初旬の爽やかな気候が鳴りを潜め、どんよりとした小雨模様が続く関東です。
そんな時はいつもは気持ちもズズーンと落ち込むのですが、ちょっと今面白いことになっているのでこちらでもシェアしておきたいなと思います。

前回の記事でもこの夏の活力枯渇を綴りましたが、本当にどうにもならないくらいに落ちていました。
いつもだったら少ししたら復活できるアクシデントにそのまま引きずられて浮上出来なくなっていて、
何とかしてチャージをしようとして動いていた感じでした。

その中で、先週末とあるオンラインセミナーに参加しました。
たまたまSNSに流れてきた告知にポチったのですが、潜在意識下にある子供のころに自分が設定してしまっている人生の脚本を見つけるといった類のものです。

それらのワークなら散々やって来ているはずでしたが、私の知るフィールドとは違った側面からの、スピリチュアル要素を排除したロジカルな側面からのアプローチです。これで見えてくるものが何かあるのか、はたまた既に知っている、分かっていることだけなのか? そう思いながらの参加でした。

結論から言うと、びっくりでした!

勿論、知っていたことやこれまでに体験し、気付きを得ていたこともありましたが、
その先のもう一つ先に、踏み込んで忘れ物を取りに行って来た感覚になっています。

中でも一番大きかったのが、母との関係性についてでした。

インナーチャイルドの概念については散々、セッションでも講座でもお伝えして来ている通りなのですが、私自身の内にはまだ見つけられてあげていなかった記憶があったのです。

母親との関係性で構築した概念はそっくりそのまま、その後の人生において全ての女性との関わり方を決定づけます。
これは私だけじゃなくて、誰にでも当てはまる普遍性のある人間心理です。

多くの人が気づいていることかも知れませんし、こんなブログをご覧になる方の中には子供の頃の感情を見つけてあげようと行動した方も多いと思います。

そしてそれが、なかなかクリアにならない、出来ない方もいらっしゃることでしょう。

もう終わったこと。すんだこと。

そう思ってお仕舞にしている方も多いことでしょう。

さて、私の場合ですが、
初めてこうしたワークに取り組んだのは20代の初めの頃で、その時母に対して湧き上がった言葉は、

「お母さんのお腹の中に戻りたいよぅ」と言うものでした。

つまりは、まだまだあの頃の私の精神は全くの子供だったのです。

4人姉弟の長女だった私は早いうちに下の子たちや従妹たちの面倒を見る立場とされましたし、大人達も忙しくて余裕がなかったので、早く大人にならなければなりませんでした。
甘える、泣く、かまってもらうと言ったことが許されない立場に、充分に与えられないうちにならなければならなりませんでした。

その辺りは既知の事柄でしたので癒しも進められ易かったのですが、
どうもそれだけではない部分が、もっと後ろに潜んでいたのですよね。

ある程度の人生の時間を過ごしてからでないと、開かない蓋もある。

そういうことなのかなぁとも思います。

今回私が開けられた蓋の先にあった感情、それは、母に対する怒りと拒絶の悲しみでした。

言葉として出てきたのは、「なんで?」というもの。

なんで? 何で? なんで????  を繰り返しながら泣く私。

この何で?の先に紡がれる言葉は何なのか?

更に深く潜ります。


私の実家は私達子供と父母、そして祖父母が完全同居の大家族でした。
女ばかりの姉妹の長女だった祖母が祖父を婿養子に迎えていたので、祖母は一度も家の外の社会を経験していない子供のままの女性でした。
加えて祖母の親、曾祖父は明治の男で、機嫌が悪いとキレやすく祖母に対する折檻や体罰も当たり前にあった様子を何度も聞いていました。

そんな育ち方をしたインナーチャイルドむき出しの祖母が姑となったので、母は相当つらい思いをしていましたし、
祖母には私が自分を投影する対象に見えていたのでしょう。孫の私にもかなりキツいおばあちゃんでした。

それらを回想していくと、母に向かう「何で?」の先の言葉が見えてきます。

「何で、分かってくれなかったの?」

「何で、味方になってくれなかったの?」

「なんで、一緒に戦ってくれなかったの?」

つまり私は、きつい祖母への思いを一緒に分かち合う、
こちら側としての同じ立場にいたかったのです。

ですが母はそういうことは一切しませんでした。
私が何か訴えても、「そんなこと言うもんじゃない」 しか返って来なかったのです。

母自身がかなり抑圧されていたのでしょう。私を庇うとか、こちら側に立つとか、そんなことはありませんでした。


今思えば母が同じ側に立っていて欲しかったのは勿論父でしょう。
ですが会社を興したばかりの父は忙しくて毎晩徹夜で帰って来ない日が多く、
あの頃私の実家は典型的な父親不在の家庭でした。

その中で形成されていった家族の中での女性の秩序と上下関係。

私も否応なくそれに巻き込まれていたのです。

さてそこから、その「何で?」のオンパレードを見ているうちにさらに深いところにそれらの思いが集約された言葉が沸き上がりました。

「 なんで、私じゃダメなの?」

というものです。

その時イメージで見えていたのは、母の横顔でした。
怒りを湛えた顔で、こちらを見てくれない母。

何で私じゃダメなの???

何と私はそこに、私が差し出している母への思いを拒絶されているという認識を芽生えさせていたのです!!!!!

私の差し出していたもの、それは愛に他なりません。

そうして私は、

” 私の与えようとするもの、与えたいものは、本当に与えたい人に受け取ってもらえない。”

” 私じゃダメなんだ。”

こうした設定を、人間関係の根底に基本のキとして置いてしまっていたのでした。

もうね、これに気が付いた時の衝撃と言ったら!!!!!!

あぁぁぁぁぁ、だからかぁ!!!! という気づきと、そこから瞬時に起きたこれまでの自分がやっていた人間関係におけるパターンの根本原因を一瞬にして理解する動きは、まるでオセロの駒をすべてひっくり返して行くかの様でした。


そこからはもう理解と気づきの芋づる連鎖です。


あぁ、あれはこうだからこうだったんだ・・・というものがズラズラと引っ張られて沸き起こり続け、涙も止まらないしもうてんやわんや(笑)

カタルシスと共に突如として世界が刷新されて行きました。

今になってようやく分かったことですが、私のインナーチャイルドの視点には巨大なモンスターの様に祖母の存在があったので、その陰になっていた母への思いに意識が向けられていなかったのです。
祖母へは怒りと無力感があり、そして母に対しては同情とシンパシー、共感を求めていたのでした。

つまり私の内はダブルバインドになっていたのです。
今まで母に対する感情のワークをやろうとしても、どうしても祖母の存在の方が大きかったので、私のインナーチャイルドの感情は祖母にしか向かっていないと思っていたのです。
そしてそんな祖母が亡くなって10年経った今になって、ようやく母だけに向けたワークが出来るようになったのだろうと今回思い至りました。

人間の心理って本当に、複雑というか、何というか。
自己の生存のために、精神の崩壊を防ぐために、ありとあらゆる退避策を取るのですね。

祖父母が他界し、孫たちに囲まれる今の母は、
私が昔見たことのなかった笑顔を見せるようになりました。
余裕が生まれているのでしょう。

あの頃に、こんな顔を見たかったなとも思います。
私に向かってこんな笑顔で笑いかけてもらいたかったなとも。

(本当はあるんです。あったんですけど、記憶として薄いだけです。)


母には、もっと笑っていて欲しかった。
私の思いはただ一点、そこにありました。

さてそんな感情の追憶を経て、私の中で動いたものがあります。
認識のズレから生じていた軸のズレが、あるべき所へガサッと音を立てて移動しました。

それは自分の中心軸であり、その根底はコンセントの先の様にエネルギーの源泉につながるものです。
コンセントの先端が二本、しっかりと差し込まれると身体にエネルギーが充填されて行くのを感じていました。

今までの私はまるで、コンセントの口がズレていて一本だけでエネルギーを補給していたんだなと分かりました。


それが正しく刺せた途端に、ハートチャクラが熱を帯び始めます。

そして、「 私じゃダメなの? 私じゃダメなんだよね。」 が、

「私じゃなくちゃダメなんだ。私でいいんだ。」 へと、ガラリと反転したのでした。

こうして、母という命の源泉との繋がりを正すことにより、愛の源泉と正しく繋がることとなって、
自己認識の反転が突如として起こったのです。

人に与えたいのに、疲れてしまう。
それが今までの私の在り様でした。


コンセントが片方しか刺さっていなかったのですから、当然ですよね。

ハートが温かく活性化しているとこんなに身体もポカポカと温かいんだと知りましたし、
何だか全てが楽しくて面白く感じますし、ハートが活性化しているとハートの声に従うのも容易になるんだなと感じています。 

ハートの明晰性がアップした感じですね。

愛の源泉との繋がり直しが起きたこと。
これはとても大きな成果でした。

このタイミングだから出来たこと、起こったことだったのかも知れませんが、
これからをどう生きるか、そんな大きなパラダイムシフトの時間を私は今過ごしています。

今後がどうなるかは未知数ですが、またご報告しますね。

今日は昨日観た高木由利子さんの写真展画像と共にお送りしました。

ではでは、また☆

橙香