天才の布石

お久しぶりです。

まとまった文章を書くエネルギーが無くなっていたのは暑過ぎたから、ということにしておきます。
いや、本当にこの夏は暑過ぎたし、ショップの手配でも多々ミスが起こってしまいご迷惑をおかけしました。

9月はそんな夏の在りようから少しずつ回復の過程を辿っていました。
インスタやアメブロに小出しにしていましたが、山や実家へ出かけたりも出来て、
自分を構成するエナジーの補充、補填が出来た感じがしています。

製作なんかも、そういったエネルギーの欠乏があると手が出せなかったので
この夏はひたすらお休みしてしまいました。

10月の頭は私にとっては一区切り。
誕生日を迎えることもあって、いつも大きな切り替えを意識する時間です。


さて、そんな時間を過ごす中で大きく揺さぶられ、また助けとなったのが
音楽と絵画、芸術、美術でした。


先ず一つは9月半ばに開催された横山幸雄さんのベートーヴェンプログラム。
今年は何だか横山さんのコンサートに行く機会が多数ありましたが、その集大成的なポジションだったかなと思います。

横山さんのことは20数年前のショパンコンクールファイナリストとして、3位入賞した時に知って少しの間後援会に入っていたことがありました。
まだ小さなホールで演奏されていた頃のベートーヴェンも良かったんですよね。

昨年のショパンコンクールで反田さんと2位タイのガジェフさん同様、私はどうもソナタ賞を受賞する方の演奏が好きらしいです。
構成力や読解力、メンタルの思考性と感情のバランスなど、ソナタを構成する力量がある演奏家を好みます。

そう言いつつも横山さんはショパン弾きとしても凄くて、よくあの速さで指が回るなぁと感心します。
彼のショパンコンチェルトはコンクールファイナルでも選ばれた2番の方が好きですね。
冒頭のメロディなんかは長年弾きこんでいるのが感じられる唄い回しでウットリしてしまいます。

さて、そんな横山さんの今回のプログラムテーマは変奏曲。
バッハのコルトベルク変奏曲を全曲! なんと全曲をまるで前座の様に弾きこなします。
アリアから始まって色とりどりにモティーフが展開され、最後にまたアリアへと行きつく旅路は
宇宙の螺旋階段を上がっていくかのような時間でした。
最後のアリアは最初のアリアと同じなのですが、その経験、体験の後に行き着いた先であり、それは同じに見えても似て非なる次の次元の世界でした。
さらにヘンデル、モーツァルト(きらきら星)、そしてベートーヴェンへと。

この一日がかりの体力勝負的なコンサート形式は、横山さんでなければ成し遂げられないだろうと
いつも半笑いと言うか、苦笑いを浮かべてしまいます。(ギネス記録も持っているらしい)
だから聴くこちら側もまるで何かに挑むかのようにして(笑)受けて立とう的な姿勢で臨むのです。


そしてこの日、素晴らしく感動したのがベートーヴェン遺作のソナタでした。
第2楽章の唄い方がとても心を揺さぶられ、そこにある兆しを見たのです。

それは、どこかブラームスを奇想させるものでした。

時代という空気がそこにはあったのだろうと思いますが、ベートーヴェンのシンフォニーに心酔していたブラームスは、自身のシンフォニーを書き上げるまで相当な年月を要しています。

そこにはあの天才が完成させたものを自分が越えることなど出来るのだろうかという苦悩と葛藤があったのは周知の通りですが、私はこの日ベートーヴェンの遺作ソナタにブラームスへと渡されるスピリットの萌芽を見た気がしたのです。

それは2人の天才のストーリーに留まるものではなくて、そこに至る人類の軌跡、積み上げられたエナジーの痕跡、先人の偉業を超えんとする次世代の新たに湧き上がる才能と力に託す思い、それらの系譜全体が人類全体の遺産、宝に思えて来て、思わず涙してしまったのでした。

あぁ、人間て素晴らしいな。

こんな素晴らしいものを紡ぎ、さらに紡ぎ、より良く美しくして行こうとする人間の善なる衝動。
それらに心が震えて震えて仕方がなく、気が付いたらハイハートチャクラがクルクルと活動を始めていたのでした。

個人の領域を越えた人間の愛や善なるものに触れた気がします。

それらを感じさせてくれるベートーヴェンの力量とはいかなるものだったのだろうか、私達はそれを想像するしかなく、彼の音楽に触れてその一端を、エッセンスを辛うじてキャッチするのみなのですが、人類の精神の進化、その先端の光が、ベートーヴェンと言う人物のパーソナリティを通して顕現されたのだろうと私は考えます。

総じて音楽や絵画、芸術というものは人類全体の精神の成長や進化の顕現であり、
芸術家という個の人間というパーソナリティがそれらを具象化してくれているのだろうと思います。

その意味では、昨日観てきた青木繁と坂本繁二郎という二人の画家の、ふたつの旅という展示も良かったです。

明治時代、久留米出身の同級生でもあった二人の画家の足跡を辿る展示では、同い年の同郷出身という二人が切磋琢磨しつつ、時には互いのライバルとして、葛藤や苦悩とともに作品を生み出した様子が見て取れました。

自らのエゴ、自我を強烈に作品に全身全霊を込めて投影するかの様な画風の青木と、対照的に自らをモティーフの中へと溶け込ませるかのような自我を滅却するかのようにして、不可逆的にすべての中に自分を見出す境地へと達した坂本。

なんと対照的なアプローチなのだろうと感心してしまいましたが、互いの作風、画家としての在り様などはきっと対立することもあっただろうし、芸術選考の評価と相まって互いに自分と比べて藻掻くこともあっただろうと言うことは想像に難くありませんでした。

しかし両者に共通して感じたのは、絵筆を持つ時間の長さとでも言いましょうか。
画力、絵の力量に、相当な時間の蓄積を感じるのでした。
画家という人種もピアニストという人種もおそらくは、その絵筆やキャンバス、楽器に向かう時間が凡人のそれと比べたら驚異的なものなのでしょう。

時間の蓄積は必ず作品に顕れており、そこまでしてようやく人類全体の持つ可能性や感情の吐露、その思いや精神を表現する領域に辿り着くのだろうなと感じます。

昔読んだ、故人になられた中村紘子さんの著作 「ピアニストと言う蛮族がいる」にも、似た一節がありました。
小さな頃から何万時間という時間ピアノを弾いて弾いて、ピアニストになったとしてもその人物は老いて人生の終焉を迎えるわけで、そうするとまた別の人間がピアノに何万時間という時間をかけて優れた演奏を披露する。そうやってピアニストという蛮族が生き残っていく。

そんな内容だったかと記憶していますが、天才の系譜というものは一握りの才能のたゆまぬ努力によって引き継がれて行くという人間の在り様は、依然として未成熟なものなのかも知れないなと。

ピアノ少女だった私が感じたことは30年経ってもあまり変わりませんが、その積み重ねがミルフィーユの様に人類の精神の層を作って行くのだろうと言う解釈をアラフィフになった今付け足しておこうと思います。

人間のたゆまぬ努力と前進、真善美を信じて進む精神力。

それらを感じさせてくれた二つの芸術に触れる機会でした。

さて、そんな天才の萌芽に触れて、私はここからどうして行こうかと考える毎日です。

ではでは、また。

橙香